『領域を広げること』
語学の学習には到達点がない、とはよく言われることです。労力と時間と費用をかけて学習したにもかかわらず現状のレベルに満足できない、しかし、ここでやめる訳には行かず、継続しかるべし、と決意したものの、学習内容や学習方法をどう考え、見直したらいいのか悩ましいところです。
中国語の学習を進めていくと、中国文化や中国社会全般に対しても理解を深めていく必然性を感じます。知らないこと、つまり未開拓の学習領域があまりに多いということに気づかされ、進歩に多少は役立つかもしれないと、その領域に手を出したくなります。文字の上での探求だけでなく、中国画、書道、演劇、武術など体の部位を用いる学習領域もあります。筆者もそのような「つまみ食い」の癖が治らずずいぶん道草を食いましたが、最近、中国古典の領域に、恐る恐る分け入り始めています。
中国古典といえば、高校の漢文の授業で唐詩やら史記の抜粋など返り点を頼りによたよたと読み下した記憶がよみがえります。中国語の文語文は、現代のいわゆる白話文とは隔たりがあまりに大きく、全く異なる言語のようです。いまさらながら、中国古典の広大な森に分け入って樹木を一つ一つ確認して歩くような気の遠くなる作業には時間的余裕がないので、ドローンのように森全体を俯瞰して全体を捉え、そのあとで興味をひく場所に降り立って鑑賞してみる、というような方法にならざるを得ません。
現代中国語に軸足をおきながら、古典の世界に少し真剣に足を踏み入れなければ、と考えるのは、次の理由からです。
1、やはり中国は文字の国。漢字が表意文字であることの特色を十二分に生かした表現形式が文語文にあり、この究極ともいえる凝縮した表現形式は、難解ではあるが非常に興味深いこと。
2、文語文は、現代の口語や白話文のなかに、四字成語やその他の慣用句として「思いのほか、広く」受け継がれており、その成り立ちや背景などを多少とも知ることは現代中国語の学習においても極めて役立つこと。
3、中華圏では、古典知識の修得がやはり人々の基本的な教養、素養となっているように見受けられること。
文化的環境の異なる日本人が中国古典に関し、本家本元の中国の人に、伍して戦うなどということは、誠に恐れ多いことではありますが、少しでも高いところに登るためには、古典にも興味の領域を広げて少しでも研鑽を積むことは矢張り大事だと考えるようになりました。
さてどのように中国古典入門編にアプローチしたらよいか。中国の書店では、唐詩、宋詩を始め、古典のさわりを編集したピンイン付きの書物がいろいろと売られているのでこれを入手してピンインを読んでみる。とにかく、意味はわからないが読めるということがうれしい。詩や古典の一節を有名な朗読家が吹き込んでいるCDもあります。筆者は諸葛亮の「出師の表」をモノにしたいと飽きるほど聞いていますが、完全に暗誦できるのはいつの日か。
(藤野 記)