コラム「学思堂」

『論語と算盤』から『論語とIT』の時代へ

 今年も9月上旬の2週間、大学生の中国研修の引率かたがた上海、杭州、北京を巡ってきました。自分が中国語に初めて触れてからかれこれ45年、そして仕事でかれこれ20年近く駐在したり、何やかやずっと隣国と関わってきました。その間の中国の変化のスピードたるや、まさに“目まぐるしい”という形容詞がぴったりで、その変化の様子を見続けることに決して“飽く”ことはありませんでした。
 いまでも年に2,3回中国に足を運びますが、刻々と変化する様子を肌で感ずるため積極的に街に飛び出し、また中国人の知人や現地で活躍しているかつての同僚に会ったりして“定点観測”を行っています。中国はここ数年、国を挙げてIT開発に力を入れ、やれネットショピングだ、ネット決済だ、シェアリングビジネスだ、EV(電気自動車)化だと積極的に推進しており、大都市の市民の生活はすっかりスマートでクールなものになってきました。今や日本よりも一歩も二歩も進んだ場面がみられるようになったのは、ここ数年のことです。
 スマホを使ってコンビニやレストランで簡単に決済する、街で車を拾うのもその料金の支払いもスマホで、友達とのお金の精算や貸し借りもスマホで、といった具合に今やスマホは多くの中国人にとって生活に不可欠なツールとなっており、それは日本の比ではありません。
 そんな中国の様子に刺激され、また日本のこれからを想像した時、そうしたITツールの急速な浸透によるスマートでクールな生活の到来と裏腹に、「何か見えにくくなっているものがあるのでは?」と、思えてならないのです。
 日本には渋沢栄一の『論語と算盤』という名著があります。その『論語』とは「道徳」「理念」、『算盤』は「経済」「利益」の象徴です。20世紀以降世界の経済は、一人一人の「道徳」や「理念」を基礎とした「信用機能」の発達に裏付けられ発展してきました。そして今日、“信用経済”はITの出現により巨大化の一歩をたどっています。その中で様々なお金の遣り取りを行う際、その裏付けをなしてきた『信用』の機能が見えにくくなってきているのではないでしょうか。
 今や『論語とIT』の時代になりました。フィンテックのこの時代、もはやツールは“算盤”ではなく“IT”であることは間違いありません。『論語』は「不変」の、『IT』は「変革」の象徴ともいえます。世界経済において、今後も“不変なる信用”をいかにして健全に維持し機能していくかということは極めて重要な命題です。そう考えると、『論語』は、ますます進歩するIT社会においても「不変」「道徳」「理念」といった様々な言葉の拠り所として、その存在は今後とも重みあるものとしてあり続けることでしょう。
 でも『論語』って、実際は時代時代に、人それぞれに「融通無碍」に解釈されながら、語り継がれてきたものですよね。そういえば「融通」の意味には、お金の貸し借りする意味もありましたっけ。

子曰:人而無信不知其可也(為政第二)
【読み下し分】子曰はく、『人にして信無くば、その可なるを知らず。』
【現代語訳】孔子は答えた。「人に『信』がなければ、もはや生きてくことなどできない。」

「去食自古皆有死民無信不立」(顔淵第十二)
【読み下し分】子貢政を問ふ。子曰はく、『食を足し、兵を足し、民之を信ず。』子貢曰はく、『必ず已むことを得ずして去てば、この三者に於いて何(いずれ)をか先にせん。』曰はく、『兵を去てん。』子貢曰はく、『必ず已むことを得ずして去てば、この二者に於いて何をか先にせん。』曰はく、『食を去てん。古より皆死あり。民信なくば立たず。』
【現代語訳】孔子が弟子の子貢から政治の要諦を聞かれ、孔子は「兵と食と信」だと答えた。さらに子貢は、これらから強いて捨ててもいいものがあるかと聞く。すると孔子は、まず「兵」だと答え、続いて人間というものは必ず死ぬ定めにあるから「食」を捨ててもいいが、「信」だけはダメだ。これがなければ人間なんて生きている意味が無い、と答えた。

                                             平山 記