コラム「学思堂」

『通訳』について考えること

 外国語ができるようになるということは、具体的に外国語の何がどう出来るようになることを言うのでしょうか。読み書き聞く話すということばの基本的な要素がネイティブ(当該言語を母国語としている人)と同じようにできるようになること、というのがその答えの一つかもしれません。一方、ネイティブ並み、ということが、突き詰めるとどこまでのレベルを指すのか曖昧なので議論の余地があるかもしれません。しかし、外国語が何の困難もなく辞書もほとんど引かずに自由自在に「自分のために」使いこなせる、のであれば、これは理想とする外国語習得の到達点に極めて近い領域にあると言えるでしょう。
 
 ところが、中国語に関して言うと、世の中の中国語学習者に対する期待値が自然と著しく高められているのが現実で、単に読み書き聞く話すのレベルでは済まされず、これに加えて逐語口語通訳までできることが当然と見なされているフシがあります。
 
 需要が大きい言語ではあるが、日本側に、使い手や話し手がまだまだ相対的に少ないのが中国語です。ビジネス、観光、日常生活などの現場ではコミュニケーションの円滑化や相互の意思疎通を図るために、誰かが通訳をしなければならない、という事態が極めて高い頻度で起こっています。会社、学校その他所属する団体で中国語ができる人材として認識されていると、逐語通訳しかも双方向の通訳(日本語から中国語、中国語から日本語)なども自由自在にできて当たり前という「うれしいような」誤解をされ、準備もないまま現場に駆り出され、勇んで通訳に挑んではみたものの、ものの見事に沈没してしまう、泣くに泣けない図式が展開します。
 
 なにしろ、通訳は相手(他人)の言葉を自分の言葉に組み立て直して、間髪を入れずに発声することによって成り立つ仕事ですから、自分の言葉で「読み書き聞く話す」の学習(自己完結型のような)方法だけではカバー、経験したことのない方法でのアウトプットを要求されるのです。同じ語学学習という領域ではありますが、読み書き聞き話すという反復練習で総合力を高めるオーソドックスな学習方法と、話者から発せられる言葉としての音声を瞬時に頭でもう一つの言語に置き換えて発声する通訳とでは、そのアプローチの仕方がずいぶんと異なり、通訳では、より目に見える形でテクニックの披露を求められることになります。日本語と中国語との間に存在する距離感を、短時間でできる限り解消できるよう、その場に応じた適切な単語と適切な言い回しで表現する、つまり通訳の精度を上げることは、現場で経験値を積み重ねるだけでなく、日頃の見えない努力や工夫が必要と言う点で、職人技のような側面も持っています。
 
 通訳は、読み書き聞き話すという基本のうえに、別のアプローチで中国語の技術を磨くということなので、通訳ができないのは、語学ができない、ということと同義ではなく、訓練と経験の機会がなかった、ということに過ぎません。
                                            藤野 肇