コラム「学思堂」

『語学 事始め』

 中国語を学び始めてからずいぶんと時が過ぎてしまいましたが、その時間の割には実力が全く伴っていないことを痛感する毎日です。始めた頃は、一所懸命(?)勉強していましたが、社会に出てからはというもの、進歩どころか退歩の連続でした。
 
 中国語を学習する切っ掛けは各人各様ですが、自分の場合は「同じ漢字でも日本と中国でなぜこんなにも読み方が違うのか、これは面白い」と感じたのが直接の動機です。中国の歴史、文化、経済、人々の思考様式などなどなぜこうなっているのか、これらに対する興味は中国語学の学習を起点に、二次、三次的に生じてきたもので、必要に迫られてと言う側面もありますし、語学だけでは満足できないという気持ちもありました。
 
 中国語は本当に発音が難しい言葉です。それとは異なりヨーロッパ系の言語にみられるような複雑な格変化や時態変化などがありません。そこで、学生時代にそのような格変化する言語を却って知っておくのも良いかと考え、一時期スペイン語を齧ったことがあります。“巻き舌のR”と言われるルルルルと震える子音は不器用な私にはどう練習してもだめでした。しかし、とある先生の授業はまさに洒脱の一言。語学も「極め人」ともなると、その言語領域について縦横無尽に好きなことを語りだして「キリがない世界に到達するものだなあ」と、しきりに感心したものです。教室に入ると毎回オープンリールのテープレコーダーで当時大変に流行した『ADORO(アドロ)』という曲を2,3人の歌手で聞き比べ、『「あなたは私の太陽です、月です」なんていうのはスペイン語の常套句です。』といったかと思うと、授業が終わる頃にはポケットから懐中時計をとりだして、煙のようにいなくなる先生でした。今、自分が中国語を教える立場になり思うことは、何を聞かれても立て板に水のごとく、時にはユーモアを交えつつうんちくを語ることのできる、あのスペイン語の先生のような、いわば『横丁のご隠居教師』みたいになれればと思っています。
 
 語学の修得に王道はあるようで実際は“なし”です。今の時代、学習手段は本当に百花繚乱です。ネットで音声や文献にアクセスでき、手に入る読み物も増え、電子辞書も進化して、比較的簡単に旅行にも行くことができ、留学さえもそんなに困難ではなくなりました。時間も費用も掛かる贅沢な勉強・習い事かもしれませんが、環境がこんなにも揃っているのですから、これらを使わない手はありません。語学の学習に関する限り、短期間でのマスターは難しく、即効薬のような見返りは期待しない方が身のためです。理想を言えば長く太く、無理なら長く細くいつまでも、異文化理解を深め、同時に精神的な糧を得るためのお付き合いです。脳みそにICチップを埋め込むことを期待できない生身の人間にとって、漢字の発音がわからないと辞書が引けない中国語の学習は、総じて効率が良いとは言えませんが、そんな煩わしさの先には少しいい景色が見えているのではないでしょうか。                                
                                        副学院長 藤野肇